こんにちは。もぞ太です。
旅、冒険、自然などをテーマにした本を紹介します。
今回は、河野啓さんの「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」です。
この作品は、2020年第18回開高健ノンフィクション賞を受賞しています。
栗城史多(くりきのぶかず)とは何者だったのか。
栗城史多さんは、2018年5月、エベレストで滑落死しています。35歳でした。
この作品は、河野さんが栗城さんのお墓を訪ね、作品の完成が間近となったことを報告している場面から始まります。
その時の気持ちを河野さんはこう綴っています。
『これから私が語る内容には、彼にとって耳の痛い話も含まれているだろう。しかし、遺書も遺言も残さなかった彼が、本当は自分の口で伝えたかった「ありがとう」や「ごめんなさい」も含まれているはずだ。私はそう信じている。』(「デス・ゾーン/真冬の墓地」 より抜粋)
読了後、改めてこの冒頭の文章の意味を考え、私自身もそうであって欲しいと思わずにはいられませんでした。
栗城さんが本当は語りたかった内容が、この作品によって語られていて欲しい。死者に確認を求めることはできませんが、栗城さんが本当は伝えたかったことが、この作品に含まれていることを願います。
新時代の登山家に対する疑念。
栗城史多さんは、新時代の登山家として2007年頃から徐々にメディアの注目を集め出します。
作者の河野さんは2008年から2009年にかけて栗城さんを取材しており、栗城さんが世に出るきっかけを作った一人と言えます。
取材を続けるうちに、河野さんは栗城さんとの距離感を微妙に変化させたと語っています。「応援する」から「観察する」に変えたと。
なぜでしょうか。作中語られる多くのエピソードにその答えがあります。
作品の終盤近くまで、作者が語る栗城さんは、読者に多くの疑問を抱かせます。
栗城さんの人間性、登山家としてのスタンス、もはや栗城さんは登山家と呼んでいい存在なのか、といった疑問です。
語られるエピソードの多くは、おそらく栗城さんが大衆に知られてほしくない部分であったと思いますし、死者に鞭打つような印象さえ受けます。
「単独無酸素での七大陸最高峰登頂」という表現に潜む矛盾。
栗城さんが負った凍傷の不自然さ。
作品の終盤になるにつれて、河野さんの語りは、栗城さんの死に対する疑問に集約されていきます。
滑落死は事故だったのか?それとも・・・。
死の真相に迫る過程で浮かび上がる栗城さんの「デス・ゾーン」。
舞台はエベレスト、主演は栗城史多。
本当の気持ちを語らずに逝ってしまった栗城さんですが、この作品によって栗城さんの「エベレスト劇場」が完成することを願います。
河野啓の言葉
過去のどんな登山家よりもメディアに露出し、インターネットの世界では大きな賞賛を受ける一方で激しい非難を浴びた彼の、「不思議」の中にある「真実」を私は探してみたくなった。(「デス・ゾーン/真冬の墓地」より抜粋)
栗城さんには「エベレスト劇場」を名作に仕上げる力はなかった。登山家としても、表現者としても・・・・。だが、この無力さこそ「栗城史多」の最大の魅力だった。(「デス・ゾーン/単独」より抜粋)
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